無関心 de 委員会

無関心でいいんですか?

北海道を救った、樋口季一郎中将

戦後日本の教育・報道によると、8月6日広島、9日長崎の原爆投下は、アメリカが戦争を終結させるための最後の手段として、これ以上の戦争による犠牲者を増やさないため、正義の行為であると、そして日本はこの原爆投下により抗うことを止め、ポツダム宣言受託に導かれた。。。このような論調でした。

アメリカによる原爆投下については、四半世紀が過ぎ色々な資料から、戦後語られてきた内容とは随分と違う真実が読み取られるようになりましたが。。。

 

とかく、終戦を向えた1945年の8月を語るうえで、原爆投下のインパクトが大きさ故、そのことばかりがクローズアップされてしまいます。

 

ポツダム宣言を受託を余儀なくされた要因は、原爆投下だけではありません。戦時中はソ連と日本は日ソ中立条約を結んでいたので、ソ連と戦闘する状況にはなかったのだが、8月9日ソ連は一方的にその条約を破棄し、日本への参戦を表明したのです。

このソ連による参戦表明を受け、14日御前会議を経て最後は昭和天皇のご決断により、ポツダム宣言受託を決定しました。そして、15日国民に知らせるべく玉音放送がなされました。

 

さて、参戦を表明したソ連ですが、ポツダム宣言受託の報を知ってか知らずか、2日後の17日深夜に、ソ連カムチャッカ半島より千島列島の最東端の島、占守島に侵攻してきたのです。当時、占守島にはアメリカ侵攻を見据、日本軍は8000人ほど駐留していました。15日の玉音放送のあと武力解除の命を受け、武器弾薬、燃料等の始末を初めていた矢先の侵攻だったのです。ソ連侵攻の報はすぐに樋口中将に伝えられました。樋口中将は誰よりもロシア通であり、ロシアの野望を読み解き、「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ!」と命じました。

ソ連の侵攻に迎え打ったのは、池田末男連隊長率いる「士魂部隊」と呼ばれた戦車第11連隊です。深夜の奇襲に対し数時間後には出撃しソ連軍を次々に撃破、ソ連軍は千島列島はもちろん北海道までをも侵攻する手はずであったが、占守島での戦闘であえなく撤退を余儀なくされ、22日は停戦合意に至るのです。

戦後教育・報道のなかで全く語られることのない、占守島の戦いは、北海道はもちろん、日本そのものを守り抜いた戦いであったことをしっかりと記憶に留めておきたいものです。

占守島の戦いについて: https://ironna.jp/article/2414?p=1

 

また、樋口季一郎中将の逸話は、杉原千畝よりも前に、迫害を受けたユダヤ人救済に尽力されたことも、殆ど語り継がれていません。

 

戦後75年が経過し、あの戦争についてもっともっと関心を寄せたいと思います。